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2005年10月02日

平成6年9月の記憶

 僕の就職活動は楽ではなかった。理系だった僕は、教授の推薦状があれば地元の中小企業には就職できるはずだった。ちょうどバブルがはじけ、就職氷河期第1期生であった。

 小学6年生の卒業文集の後ろの方に「将来なりたい職業」というページがありました。そのときに書いていた僕のなりたい職業は「プログラマ」でした。当時からパソコンゲームに興味があり、自分でゲームを作りたいと思っていました。

 僕が、就職先として希望したところは、主にゲームメーカです。「任天堂」「セガ」「ナムコ」etc・・。この中で唯一、書類選考が通ったのは「ナムコ」だけでした。次に待っていたのは”ゲームの企画書を提出せよ”でした。

 僕は「水上レースゲーム」を企画書として提出しました。ヒントは任天堂から販売されていたマリオカートです。自信を持って1次選考会に臨みましたが、惨敗!みんなの企画書は分厚いのです。僕の企画書は3ページほどにまとまったもの。まぁ、やる気を見られたのでしょう。「ご縁がありませんでした。」の電話が後日きました。

 ところで、この僕も考えた”水上レースゲーム”、その後任天堂から「ウェーブレース」として販売されています。目の付け所は悪くなかったなぁと自分で感心しました。

 その後は、地元のソフトウェア会社をまわり、内々定までもらったりしましたが、どうも背中に何か重たいものを背負った男たちが黙々とパソコンと向き合った職場にちょっと戸惑いがありました。

 もっと華やかな職場に就きたいという希望もあり、ズルズルと9月になりました。さすがに焦りはじめます。周りのみんなは、内々定でどんどん決まっていきます。就職浪人は避けたいと思っていました。焦って、病院事務員なんかの募集にも参加したことがありました・・・。

 そんなある日、郵便受けに1通の封筒が!差出は「徳陽シティ銀行」、銀行口座もあったので、何だろうと封を開けると、「このたびは資料請求、ほにゃらら・・、説明会および筆記試験はいついつ・・」と書いていました。

 あぁ、そういえば銀行でもシステム開発できるかもと思って資料請求していたなぁと思い、説明会に参加しました。周りは文系ばかりだし、僕は理系、どうも浮いているような。また、女性が多い!!でも華やかだなぁって思いました。

 筆記試験は国語とか英語とか、でも僕は得意科目だったので、スイスイと、どちらかというと文系タイプですから。もう、この時点では場慣れしていたので緊張せずに終了。

 1次試験は通り、面接。今まで、東京でのピリピリ面接を経験していたせいか、すごく面接官が優しく感じ安心したことを覚えています。でも、人事の面接官がきれいな女性の方で緊張してカチンコチンでした。面接では自分のやりたいシステム開発のことを話しました。

 まぁ、そんな感じだったので、やばいなぁと思いながら、過ごしていたら。10月の解禁日に無事「内定通知」をいただきました。周りの友達からは、「へぇ〜銀行?」っていう感じでしたが、僕は簡単には就けない職業だし、ここでシステム開発もできるし、不安もありましたが満足していました。

 この銀行での経験が今になって役に立つとは、このときは想像できるはずもありませんでした。

平成7年4月 入行

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posted by たかし at 14:40 | 宮城 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | ターニングポイント

2005年09月18日

平成10年10月〜3月の記憶

 ソフトウェア会社に入社して2ヶ月も経つと、早速新しいプロジェクトに参加することになりました。銀行経験しかない私にとっては不安だらけです。この2ヶ月で学んだことはエクセル関数のみ!大丈夫でしょうか??

 確かに大学時代にUNIX-C、FORTRAN、Basicをかじってきましたが、銀行職に染まっていたため、プログラムが組めるか?知識と仕事は違うのではないか?そう感じていました。

 そんな不安の中、先輩とともに元請会社との打合せに同行することになりました。中途採用とはいえ、業界初心者の私がいきなり・・・。とはいえ、銀行経験がありましたので人と接することは苦手ではなく、むしろワクワクしていました。

 色々と話を聞きましたが、言葉の意味もあまりわからず、ただうなずいていたことを覚えています。帰りに先輩にコーヒーをごちそうになり、「大丈夫だよ、うまくいくから」と言われたときは、安心というよりも何かあるんだろうなぁって思っていました。

 次に与えられた仕事が「詳細設計書」の作成でした。元請が作成した基本設計書をもとにさらに細かいレベルに落としていく作業です。今ならば理解できるのですが、当時は知識が全くなく、基本設計書をさらにきれいに清書するのが精一杯でした。ただのワープロに近いです・・・。

 これは先輩に指導され何とか形は完成。さぁ、プログラムの作成です。僕の与えられた開発部品は、CSVファイルを読み込んで、2種類の固定フォーマットファイルを作成することでした。僕がコード体系も知らなかったので、EBCDICコードでファイルが作成されているから、それに気をつけて作成してくれ。って言われても意味がわからず、そのまま取扱ってバイト数が合わないなどということは日常茶飯事でした(-_-;)

 12月初旬までに仕上げて12月中旬からは元請会社(北陸)に常駐して結合テストを行うという段取りでした。今回、うちの会社では僕を合わせて3人+α体制(応援)ということで、とても先輩は苦労していました。

 12月になってもプログラムは作成できず、結局4つある部品のうち、4つとも単体テストもできない状態で、元請会社へ行くこととなりました。。。

 元請会社での記憶はほぼありません。朝7時に起きて、朝5時ホテルに帰宅ですから。若さで踏ん張りがきいたんだなぁと思います。今だったら、きびしーです。

 仕様が理解できてもそれをコーディングできるスキルがなく、1日中、先輩に聞いたり、本を読んだりしてこなしていましたから、全く開発は進むわけもなく。周りの人も優しい訳もなく、知らない土地で知らない仕事を、孤独を感じました。しかし、幸せだったのは、この業界の他の面を知らなかったことでした。もっと、環境的に恵まれた場所から始まったとしたら、この時期は狂っていたでしょうね。(実際、元請のリーダー格の人は毎日切れていました・・・・)

 平成11年1月 正月ということでとりあえず帰ってこれました。が、正月明けると同時に今度はシステムの全体テストが東京で始まることになりました。毎日2交代制でのテストです。ここで、4つの部品が全く仕様と異なることが発覚し・・・。

 全部作り直しという恐ろしいことになりました。仙台から応援に来てくれたベテランの方も2,3人いましたが、全員挫折。会社を辞めていきました。

 最終手段のようでした・・・。謝って元請会社に開発をお願いし、何とかテストはできる状態になりました。テストはボロボロでした。テストのやり方も知らない私は何度もメインサーバをダウンさせ、みんなから「またお前か!」と責められる毎日でした。

 2月に入ると先輩たちは次のプロジェクトがあるからと仙台に帰っていきました。残された私一人でテスト・不具合改修を行うという前代未聞の経験が待っていました。もちろん、周りからの信頼度はゼロです。

 3LDKのマンションに間借りして暮らすことになりました。そのマンションには元請会社の社員が2人住んでいました。私にも4畳半の部屋を1部屋与えられ、そこで共同生活が始まったのでした。

 もう訳が分からずですが、考える余裕もなく毎日が過ぎていきました。知らない場所で知らない人たちと一緒に暮らし、知らない電車に乗って、知らない会社に通う。それは私にとって新鮮な生活でした。

 そこで出会った元請会社の方は40代という若さで取締役でした。落ち着きがあり、人をまとめるのもうまく、そして一番驚いたのは、管理者という立場でありながら、開発もできるということでした。僕たちが開発できなかった部品を1日仕様を読み、徹夜で仕上げてきたことには本当に驚きました。今でも、この方以上にすごい方に会ったことはありません。

 ある日、その方と一緒に帰ることになりました。そこで私は自分が中途入社で経験が全く無いこと、分からないことだらけのこと、不安があることを話しました。すると、ちゃんと話を聞いてくれ、理解してくれた上でこう言ってくれました。「無理はしても無茶はするな。体に気をつけ」って。

 違う会社の全然立場の違う方が私の精神面のフォローをしてくれたことがとても嬉しく今でも記憶している言葉です。結構、この業界にいる方は遅くまで働き、徹夜することがポリシーという印象を受ける人が多いです。どうしても個人で動いている感じがします。

 精神面をフォローしてくれる上司が少ないように感じるのは私だけかも知れませんが。私自身、後輩が出来てから注意していることは、話を聞くこと、そして困っていたらフォローできる余裕を持つことです。精神的にまいっているときの温かい言葉ほど大切な薬はないなと感じたからです。

 どうにか周りの人にも支えられ、何とか3月31日 任務終了。終わったときは、すがすがしい気持ちでした。そして、長く感じた時間もあっという間だったなと思えるのでした。初めての経験ばかりで辛かったけれども、友達、周りの人の優しさを同時に痛感できました。

 毎日夜中に食べたセブンイレブンの「おでん」の味は忘れられません。。

 この最初の経験があったからこそ、今まで仕事を続けてこられたことは間違いありません。一番初めの仕事が一番苦しかったので、それよりは楽だなって思えるからでした。

 平成11年4月1日 仙台へ帰る

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posted by たかし at 00:25 | 宮城 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | ターニングポイント

2005年07月26日

平成10年8月の記憶

 6月に銀行を退職して、どうしようかなって考えました。とりあえず、QJを買っていろいろと探しました。パソコンに携われる業務がいいなぁ。できれば、ソフトウェア開発をしたい!という希望から、プログラマ募集の企業をピックアップして訪問しました。

 2,3社訪問したところで理解したことは、経験が無い・資格もない=不採用ということでした。QJを見る限りでは、『経験不問、やる気のある人募集!』などと素敵な文句が書いてあるのに、実際に行ってみると、「やる気だけじゃねぇ、、、一応、テストしてみようか?」などと言われ、もちろん、知識も経験もない僕は、木っ端微塵になるのでした(T_T)

 そんな中、人材派遣会社ではありますが、日設エンジニアリングを訪問してみると好感触でした。まぁ、ここで2、3年経験積んで転職しようかなって思っていました。話を聞くと、「ちょうど金融系の仕事があって東京に3年くらい行ってもらうことになる。」って言われました。そこでちょっと悩みました。冒険心はあったけど、仙台に残りたい気持ちが強かったので。

 気持ちはありがたく受け取り、さらにQJを探しました。その中で、ふと目についた聞いたことのない会社があったので、電話してみました。すると、「今すぐ来れる?面接しましょう」と言われ、そのまま直行!当時は、常に履歴書を持ち歩いていたのがラッキーでした。

 銀行を辞めて、パソコン関係の仕事に進みたいと親に相談したときに、こう言われました。「大企業で仕事の一部分を学ぶか、それとも小さな会社で一通りを学ぶか、それによって将来が大きく変わるぞ!一生サラリーマンで出世を目指して生きるのも一つ、自分で独立するために学ぶのも一つ、今ならまだ自分で決められるぞ。」って。

 そんなこともあって、小さな会社かもしれないけど、学べることは多いんだろうなって思って面接に行きました。面接は、社長と部長、課長の3人と私一人でした。今まで色々な会社で面接をしてきましたが、一番、ざっくばらんで、あまり緊張せずにお話することができました。

 一通り話しを終え、そのまま入社が決定しました。今までどこ行っても未経験、資格なしで門前払いだったのでスムースに運んだことが不思議でしたが、ようやくこの業界に入れたということがとても嬉しく感じました。今までの業務知識は一切生かされないだろうなぁって思いつつ、新たな出発点に立ったときでした。平成10年8月 ソフトウェア会社 入社

 

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posted by たかし at 22:07 | 宮城 ☔ | Comment(2) | TrackBack(1) | ターニングポイント

平成9年11月の記憶

 僕がシステムエンジニアになる道に進んだ最初の一歩がこのときだった。

平成9年11月某日、仙台の第二地銀であった徳陽シティ銀行が営業譲渡を発表した。当時は、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券と金融機関が淘汰された時代だった。

僕は初めての経験だったし、何がなんだか分からなかった。仲間もみんな良い人ばかりで温情に厚く、働きやすい職場だった。僕の几帳面な性格も業務と一致していて、業務を覚えれば覚えるほど楽しくなっていくはずだった。それが残念である。

この頃は、パソコンもまだまだ普及しておらず、一部の人々がパソコン通信を楽しんでいる程度だった。インターネットには程遠い、文字だらけのニフティサーブが人気だったと思う。通信回線もダイヤルアップが一般的ですごい遅かった。

そんな頃でした。銀行の各支店に一台づつパソコンが導入され、色々と業務で利用していこうという試みがありました。当時は、ワードではなく、ロータス1・2・3を使うことになりました。ちょっとだけパソコンに詳しかったので、よく支店長に「使えねぇ、どうやってやるんだっけ?」と聞かれていました。

分かれば簡単なことなんですが、ログインIDパスワードを入力しなければ、メニュー画面が出てこないという仕組みでした。僕が教えてあげると、「めんどうくせぇなぁ」などと言いながら、積極的に使っていました。興味を持っていたのは、支店長と営業チーフくらいでしたね。

「貸借対照表」や「損益計算書」等は、すべてパソコン管理の時代の幕開けでした。今、考えると結構、積極的な導入だったのでは?って思います。僕は、銀行内のシステム部門への異動を希望していました。自分にとって、それが興味があり、そして好きなことだったからです。

パソコンを使える人が支店内にいなかったので、僕は色々と遊んでいました。ワードでパンフレットを作ったり、業務で利用する諸表も作成しました。銀行業務をパソコンを利用してできるということがとても楽しかったです。しかし、それは長くは続きませんでした・・・・。

毎日のように株価が下がり続け、何となく予感のようなものはありました。でも、なんとかなるだろうっていう気持ちのほうが強かったですね。Xデーは、あっけないものでした。朝、5時くらいに電話連絡がきて、「至急、出社するように」って。

慌てて出勤すると、静かな支店内。支店長が一言「本日、営業譲渡することが決定しました。」

どうやら、本社からFAXが届いたようです。前日も何も知らされていなかったようでした。

それから、毎日、大変の連続でした。殺到するお客さん。鳴り続ける電話。譲渡する資料整理。こんな経験は二度とできないからって思いながら、一生懸命仕事しました。僕はまだ年齢的に若かったので良かったですが、40歳を超えた方々は再就職も斡旋してくれるものの、大変だと言っていました。

半年間、譲渡整理業務を行い、まだ多くの方が残務整理をする中でしたが、平成10年6月 徳陽シティ銀行を退社しました。

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posted by たかし at 00:00 | 宮城 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | ターニングポイント

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